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黄金塚 (こがねづか)

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黄金塚 刀.png
埋められた黄金の太刀のイメージ

 旧堤防を走る市営バス小杉溝口線の黄金塚バス停前に小さな塚があり、高さ50㎝ほどの「こがね塚」と彫られた石碑が立っている。昭和46年、常楽寺の住職土岐(とき)氏によって揮毫(きごう)されている。この辺りの旧堤防上には古墳があり、旧堤防が築かれたとき、古墳と共に黄金塚も壊されたといわれている。付近からは「火を燃やした痕跡のある敷石」や、石製勾玉(まがたま)、剣形石製模造品などが出土、近接する上河原耕地からは壺型土器が出土していて、この台地に早くから集落があり祭祀の場があったことを窺(うかが)わせる。

 黄金塚には、鎌倉幕府の御家人稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり)にまつわる伝説が伝えれている。重成はこの地に戦勝祈願のため黄金の太刀を埋めたと伝わる。重成は将軍源頼朝の義弟にあたり、北条政子の妹を妻にしている。当初、小山田(おやまだ)重成と名乗り、平家方として頼朝と敵対したが、やがて、帰服し御家人として東国に下ったとされる。頼朝から稲毛荘(現在の中原区から高津区にかけて)を安堵(あんど)され、多摩生田緑地のある多摩丘陵に枡形城(ますがたじょう)を築いた。稲毛荘は、平安時代末期にあったことが確認されていて、摂関家(せっかんけ)の九条兼実(くじょうかねとも)らが領有していた。鎌倉幕府にとって、多摩川流域とそれに並行する多摩丘陵は、北方への防衛線であったと考えられている。

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出土した板碑

黄金塚  〒211-0051 神奈川県川崎市中原区宮内1丁目17

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